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人の触れていないところに踏み込んで道をつくる 文芸評論のフロントランナー

法政大学 国際文化学部教授
川村 湊(かわむら みなと)

  • 2016年10月11日 掲載
  • 取組み
  • 教員紹介

1974年、法政大学法学部卒業の川村教授。
学生時代の様子や、文芸評論家としてのスタンス、国際文化学部の初代学部長として学部立ち上げに取り組まれたお話をお伺いしました。

混乱のキャンパスでの出会いが後の人生に

田中 川村さんとはここ法政大学で、学部は違いましたが同期でしたね。学園紛争のさなかでしたから、1年生のときはロックアウトでほとんど授業がないような、大変な時代でした。

川村 菅官房長官、翁長沖縄県知事も同じ法学部にいたはずなのに、顔を合わせた記憶がありません(笑)。

ただ、自主ゼミと称する学外での授業があったり、面白そうな授業には学部も学年も関係なくもぐりこませてもらったり、あんな時期だったからこそできた勉強がありました。2年のとき、田中さんが師事された広末保先生の「井原西鶴」のゼミにも通いましたよ。法政でよかったと、あらためて思っています。

田中 それは私も同じで、喫茶店での研究会とか合宿とか、今にはない自由さを満喫していました、それになにより、先生方の顔ぶれがすごかったですよね。

川村 私はなんと、評論家の柄谷行人さんの英語の授業を受けたんですよ。試験代わりのレポートがあって、テーマは自由だというので、作家の古井由吉について書きました。先生はそれを取り上げて、「英語のレポートだというのに、こんなことを書いたバカがいる」と(笑)。ただそのあとに、「でも、ちょっと読めたぞ」と言ってくださった。そして成績は、語学科目唯一の「A」でした(笑)。

田中 よほどレポートの内容が素晴らしかったんでしょう。

川村 いや、むしろ劣等生として印象に残ったんでしょうが、『群像』の新人賞をいただいたときに再会したら、覚えていてくださいました。以来、柄谷先生の弟子を自称しています。かなり不肖の部類ですが。

田中 なるほど、法学部だったのに、興味は着実に文芸評論を向いていたわけですね。そしてその受賞というのは、『徒然草』の評論でした。

川村 古典の評論をされる方はいないわけではありませんが、それで受賞したのはあとにも先にも私一人だそうです。

田中 研究者はもちろんたくさんいますが、評論というのは視点が違いますものね。その後近世文学も取り上げられて、私自身たいへん面白く拝読していました。

だれもやらないなら自分が

田中 うらやましいことに、川村さんは全5巻の自撰集を編まれて、順次出版されつつあるのですが、古典・近世文学編から始まり、巻ごとにお仕事がうまく網羅・整理されていて、とても美しい構成になっていますね。その中で目を引くのが「植民地文学」。これもまた、ほかに手掛ける人のない分野でしょう。韓国で日本語を教えたご経験をお持ちですが、やはりそれがきっかけですか。

川村 はい、あるときあちらの図書館で、半分朝鮮語、半分日本語という不思議な雑誌を見つけたんです。

驚いたことに、仮にも文芸評論家である私が、書いている日本人作家の名前にまるで見覚えがない。しかし調べてみると、それらは朝鮮の作家が、創氏改名による日本人名のもと、日本語で書かされたものでした。

韓国の文学史では「暗黒期の文学」として意識的に無視されている彼等の作品は、日本人にとっても思い出したくない過去であり、実際に忘れ去られている。それなら自分が、あらためて光を当ててみようと考えたのです。

田中 興味深いもの、取り組む価値あるものに出会ってしまわれたわけですね。その後、台湾の文学なども取り上げられました。

川村 日本の植民地支配下の文学ということでは、朝鮮よりたくさん書かれただろうと予想していたら、案の定そうでした。ただこちらは、すでに研究されている方も何人かいらっしゃいましたが。その後、ミクロネシアの文学などにも範囲が広がりました。

田中 最近はもう一つ、自衛隊や原発を扱った文学も取り上げていらっしゃる。

川村 自衛隊については、三島由紀夫の自決事件が、市ヶ谷キャンパスの目と鼻の先の駐屯地で、私たちが1年生のときに起こりました。当時はよく意味がわからなかったけれど、その衝撃はいまの問題意識の源にあるかもしれません。

原発にしても、そこに問題がある以上、文学は目をそむけてはいけない。作品から問題を浮き彫りにするのが評論の役目ですから、だれもやっていないなら私がやらなければ、という使命感も手伝いました。

田中 古典、植民地文学、みんな共通して、人が触れていないものに出会い、そこに踏み込んで、結果的に道を切り拓いてしまう。法政がいま大切にしている言葉のひとつが「フロントランナー」なのですが、これはまさに川村さんのことですね。

法政のグローバル化に寄与した新学部立ち上げ

田中 そんな川村さんに、本学でもフロントランナーとして活躍していただいたのが、99年の国際文化学部の立ち上げです。新しい試みばかりで、初代学部長は大変だったのでは。

川村 語学は英語だけでなく、外国語学部に近いくらい欲張りましたが、カリキュラムについては、語学が苦手な人の気持ちがわが事としてわかる私がかかわったのが功を奏したと思います。ほかにも、情報メディア、グローバリズムなど、大きなテーマがありました。

田中 とくに、学生全員に海外体験を義務付けるSA(Study Abroad)の導入が画期的でしたね。

川村 学生が世界各地に一度に散らばるわけですから、24時間、どこで何があるかわからない。携帯電話を貸与されて、かかえて寝ろと言われました(笑)。それで、総長と理事長にも、何かあったらいつなんどきでも一緒に飛んでください、と(笑)。幸い、今にいたるまで、大きな問題は起こっていませんよね。

田中 危機管理を含めて、最初に作っていただいた仕組みのおかげですよ。法政は70年代に「国際交流センター」をつくって国際化への対応を始めたわけですが、国際文化学部創設が大きな転機になって、とてもいい流れができたのだと思います。その後「グローバル教養学部」ができ、昨年は文科省の「スーパーグローバル大学」にも選ばれました。ご存じの通り現在SAは他学部も利用していて、法政の海外留学生数は全大学中4位を誇るまでになっています。川村さんは、次はどこに踏み込んでいかれるのですか。

川村 いや、自分でもわからない。飽きっぽくて、ひとつのことを続けられないのは確かなのですが(笑)。

田中 どんな新しいものに出会うのか、周りもご自身も楽しみにしている、それこそがフロントランナーなのかもしれませんね。ありがとうございました。


HOSEI ONLINE(http://www.yomiuri.co.jp/adv/hosei/)から転載

川村 湊(かわむら みなと)

法政大学 国際文化学部教授
1951年 北海道生まれ
1974年 法政大学 法学部卒業


韓国東亜大学校助教授を経て、法政大学国際文化学部教授。
専門は日本現代文学・文芸批評。

1983年「異様なるものをめぐって—徒然草論」で第23回群像新人文学賞評論部門優秀作受賞、1994年「南洋・樺太の日本文学」(筑摩書房)で第23回平林たい子文学賞受賞、2000年「補陀落」で第十五回伊藤整文学賞(評論部門)受賞、2008年には「牛頭天王と蘇民将来伝説」で読売文学賞(紀行・伝記部門)受賞等。現在、「川村湊自選集」(全5巻)を作品社から刊行中。

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