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無垢な者 それは死者(国際文化学部国際文化学科 島田 雅彦 教授)

  • 2020年11月17日 掲載
  • 教員紹介

2019年度に受賞・表彰を受けた教員の研究や受賞内容を紹介します。

島田雅彦教授は、「第71回読売文学賞 小説賞」(読売新聞社)を受賞しました。

著書『君が異端だった頃』(集英社、2019年)


震災、悪政、感染症拡大と暗い世相が長く続く昨今、気づかないままにメンタルにダメージを受けている人も少なくないだろう。自己保存本能よりも自己破壊衝動が勝る人が増えている気がしてならない。幸福を享受するより、被害者でいることを選んでしまう。誰かに愛されることより、誰かを憎むことを選んでしまう。愛されたり、感謝されたりしていると感じた途端、それが心の負担になり、意図的に冷淡になり、相手と距離を置こうとする。誰もが自分が置かれた環境や人間関係に囚われており、なかなかその枷から抜け出せないものだ。心の鏡は歪んでいて、ありのままの自分を映し出してくれない。歪んだ自己像に閉じ込められ、自分を正しく認識できず、「どうせ私なんか」と自分を見限りたくなる。私たちは多かれ少なかれ、自分自身の被害者なのである。誰の中にも拗ねた子どもが一人いる。本心とは裏腹に冷淡な世界と一緒になって、自分を責め、貶めるうちに、やがてそれが癖になり、心の闇は一層深くなる。

自暴自棄になっている自分は醜い。できれば見たくないが、ため息を一つついた後、やや醒めた目で惨めな自分を見つめることになる。その時、他人事のように自分の恨みを聞いてやる。その不満をカウンセラーのように箇条書きにしてみる。そうやって自分の心の闇に蝋燭を灯してやれば、自暴自棄になること自体に飽きる。

壊れかけた自分をどう立て直すか、それはいつの時代でも普遍的なテーマだった。特に文学者たちは自らの体験を元に、あるいは他者、死者との対話を通じて、精神分析を行い、その結果報告を小説の形態で世に問うてきた。『君が異端だった頃』もそうした自己に施すセラピーの提案であり、かつその臨床報告を意図した。

作中にはかつて私が出会った数多くの実在の人物が登場する。その半分以上はみんな亡くなってしまったので、本作は彼らの名前と自分との関わりを記した過去帳でもある。

死者がいつまでも生きている者たちの心にとどまるのは、彼らが身近にいる証しなのだそうだ。儀式を通じて、また折々に故人を偲ぶ時、ああまだ身近にいるなと感じることがある。往年の笑顔や話し声がまざまざと蘇ることもあり、そんな時は自分も半身だけあの世の側にいるのではないかと思うことがある。

「死人に口なし」というが、本当に死者を沈黙させることはできるだろうか?わざわざ死者の声に耳を傾けるのは霊能者だけと決めつけ、誰も死者のいうことなど聞こうとしない。死者は安らかな眠りに就き、生きている者の心を苦しめることがないのだろうか?自分がなぜ死んだのかわかっていない人や、他人の悪事や制度の犠牲になった人、何かに追い詰められて自死を選んだ人は、今も何がしかのメッセージを発信しているに違いない。

私たちは死者に呪われることを恐れるあまり、彼らを名簿化し、「生きている者には干渉しない」という約束事を死者の了解なしで作った。戦争、震災、暴政などによって、死者は膨大な数に上り、個別に対応できなくなったからだ。

「死者は裏切らない」というコトバにいつも戒められている。ヒトは生きているあいだ、嘘をついたり、自分を偽ったり、嫉妬をしたり、見て見ぬふりをしたり、何らかの罪を犯す。生涯無垢でいることなど誰にもできない。直接、間接を問わず、他人を陥れたり、犠牲を強いたり、悲しませたり、怒らせたりせずには済まない。動物や虫、植物、命ある全てのものを慈しみながら、生きようとすることはできるかもしれないが、それ自体が難行苦行となる。本当に無垢な者とは限りなく死者に近い者のことなのかもしれない。

死者から見れば、生きている者たちは皆、不誠実な偽善者ということになってしまうだろう。死者を体良く黄泉の国、天国に追いやって、関わりを持とうとしないこと自体が偽善である。黄泉の国も天国も全て素朴な古代人が思い描いたフィクションに過ぎない。彼らには行くところはなく、私たちと同じ世界にとどまっている。私たちは死者たちと無関係ではいられない。

この世界の片隅で人知れず努力を重ねていた人々を偲び、また自分が尊敬し、愛していた人を思い出して、悲嘆に暮れる時、故人は一時的に復活する。罪を犯した者がそれを悔いる時、その人は一時的に罪から解放される。

感情が動かないということ、それは心の死後硬直を意味する。悲しみ、苦しみ、悔いる限り、心は死なない。我悲しむがゆえに、我苦しむがゆえに、我悔いるがゆえに、我あり。たとえ、何もすることができなくても、ひたむきに祈ることはできる。

死者は「未来の時間」を持っていないが、それゆえに老いることもない。彼らは洞窟に描かれた壁画の中の牛や馬のように不滅だ。私たちも死ねば、そうなるので、死者はそう遠くない未来の私たち自身のことでもある。

法政大学国際文化学部国際文化学科

島田 雅彦 教授(Shimada Masahiko)

1961年東京生まれ。1984年東京外国語大学外国語学部ロシア語学科卒業。在学中の1983年『優しいサヨクのための嬉遊曲』(福武書店、新潮社)でデビュー。主な作品に『自由死刑』(集英社)、『退廃姉妹』(文藝春秋、伊藤整文学賞)、『悪貨』(講談社)、『虚人の星』(講談社、毎日出版文化賞)、『君が異端だった頃』(集英社、読売文学賞)ほか多数。『忠臣蔵』、『Jr.バタフライ』のオペラ台本もある。芥川賞選考委員。


※所属・役職は、記事掲載時点の情報です。

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